Phantom of the Emerald Page.06
暗い空気を纏う少年を見た時、何故だか少し胸が痛んだ。自分に手を伸ばし懐いてきた子供が、約束を交わして別れたあの頃と同じ空虚を抱えて、泣いているのだと思った。
彼はもう、小さな子供ではない。人間という種族の時間に則ってすっかり大きくなったけれど、途方に暮れたその背中は昔のままであるように感じた。
少年のことが大事か、と問う誰かの声を思い出す。
「何だ、この手」
気付いたら、その頭にぽんと手を乗せていた。
『何となくだ』
こちらの慣れない行動を、少年は怪訝な顔で見上げてくる。
自分自身、過去によくこうして頭を撫でられていた。その度に何だかほっとするような不思議な感覚を覚えていたから、これはおそらく胸のつかえが取れるまじないの一種なのだろう。
「……別にいいけど。そろそろ出るから、ちょっとだけな」
答える少年の目元が、昨日までと比べてほんの少しだけ柔らかく見える。【彼】直伝のまじないは多少なり効果があった、と考えていいのかもしれない。
内心でそう検分する精霊の手を、少年はしばらくの間黙って受け入れていた。
*
「君達、絶対に何かあっただろう。ボクでよければ相談に乗ろうじゃないか」
ラッドとソニアという親友同士のすれ違いは、当事者が思うよりも早く第三者に知れることとなった。
折角誘った友人二人が、ろくに口を利いていない。課題の出発日に向けて詰めるべき話が多い中、様子を見ていたイオンはいよいよ痺れを切らしたようだった。
履修科目のない空き時間に訪れた図書館で、イオンから「代表者としてボクには責任がある」と迫られてしまえばラッドには隠しようもない。
「先に見かけたリュノーに聞こうと思ったのだけれど、君からの方がより的確に情報を得られるかと思ってね!」
「……何で変だと思った? 別に普通じゃないのか」
「わざわざ何故と問うのかい?」
イオンはラッドの問いに、呆れてみせる。周囲の目やラッドの心境を察してくれているのか、小さく抑えた声音はそれでもよく通った。
「リュノーはずっと黙り込んでいる上に君を見ようともしないし、君も君でひどく沈んだ顔をしている。これで何もないなどと言われても、まったく信じるに値しないね」
「沈んだ顔? オレがか?」
イオンの言葉に、ラッドは僅かに目を剥く。日頃からお喋りで陽気な分、ソニアの沈黙が異常視されるのはまぁ理解できる。しかし、自分自身沈んだ顔をしているつもりはまったくなかったのに。
そういえば、今朝はジェリスに頭を撫でられたことを思い出す。もしかするとあれは、そんなラッドを見かねた彼なりの慰め方だった可能性もあるのだろうか。大階段での一件以来、ジェリスはこの数日間何も言わず学院に付いてきていた。
「おまけに情緒の自覚すらないときた。君は実に馬鹿だな」
聞こえよがしに溜め息を吐くイオンから、聞き捨てならない台詞が飛び出した。
「いきなり馬鹿って何だよ」
「だってそうだろう? 君は何より重要なことを認識できていない、疎すぎるんだ。結果、リュノーの地雷を見事に踏み抜いて……いや、リュノーに限ったことではないだろうね」
首を横に振り、イオンは眼鏡の奥で青い瞳をきつくする。
「経緯は想像できなくもないけれど、君は消極的かつ身勝手すぎる。もう少し周りをよく見るべきだ」
「身勝手って……」
ラッド自身、一瞬何を言われているのか分からなかった。少々むっとしたが、対するイオンは真剣らしい。
疎くて消極的かつ身勝手というのは、ソニアにも「聞き分けが良すぎてやりたいことも我慢してる」と指摘された言動のことか。それでもよく見るべき、という言葉の意味が分からない。
確かに、自分がとても内向的な子供だった自覚はあるのだが──
「……ん?」
そこでふと耳を掠めた声が、ラッドの思考を遮った。
風通しに窓を薄く開けているので、図書館の外からは終業の鐘や廊下を通る生徒達の声が聞こえてくる。その時に限ってそんな些細なものが耳についたのは、漏れ聞こえた中に「リュノー」という単語が混じっていたからかもしれない。
「リュノーにしては、らしくねぇミスだな。まぁ自滅してくれたわけだし、いいけどさ」
「アイツは単純馬鹿だからな。口車で発破かけられただけで文字通り爆発起こす奴なんて、監督生候補に挙げてる教師の気が知れないよ」
「しかし何だってリュノーの奴、あんなに機嫌悪かったんかね?」
外の会話に耳を澄ませ、ラッドは小さく息を呑み込む。
今、彼らは何と言った?
週のこの時間帯、常であればソニアが受けている授業は修練場を使った魔法実技だ。その最中にミスをして……それから、どうしたと?
「……爆発?」
言葉にできない嫌な予感がして、勢いよく扉を開く。
「うわッ、エイディウ!?」
「お前達、今何の話をしてたんだ?」
生徒達の数は三人ほど。突然ラッドが現れ、呼び止められたことに一様に驚愕している風だった。まるで気まずさを隠すように、互いに視線をさまよわせている。
「言えよ。ソニアがどうしたって?」
悪意ある言葉を聞き流し、嘲笑を受け流すことには元々慣れているはずだ。それなのにその時、ラッドは彼らの様子にひどく苛立ちを覚えていた。冷えきった声と鋭い視線に臆したのか、一人がゆっくりと口を開く。
「さっきの、授業中に……リュノーが魔法の制御トチって怪我したんだよ」
気圧されたように喋る仲間に対し、別の生徒が「馬鹿、」と咎める。だがラッドがぐるりと彼らを一瞥すれば、その声も掠れて消えた。
「それでアイツは今どこにいる。まだ現場か、治癒室か」
「……ち、治癒室……」
絞り出すような声を聞いて、すぐにラッドは走り出す。その背中を生徒達は呆然と見送った。
「何だよアイツ、おっかねー……」
「お前が余計なこと言うからだろ? アイツいつもリュノーとつるんでるんだぜ。仲がいいことで」
「そういや一緒にいるとこ、最近見ないな。リュノーの不機嫌の理由、アイツとの喧嘩だったりして?」
「君達、図書館の前で何を騒いでいるんだい」
そこで第三者の台詞に驚き振り返れば、生徒達は外に出てきていたイオンと見つめ合う形になった。
「な、何だヴァニかよ。驚かすなよ」
「あぁ、それは失敬」
その口調はあくまで穏やかだが、瞳は笑っていない。同時に冷気を帯びた魔力の粒子が自分達の間をすり抜けていったことに、生徒達はぎょっとなった。
もし身近な人間であれば、その気配が姿を隠したジェリスのものだとすぐに気付いただろう。唐突な悪寒に怯える彼らに構わず、イオンも治癒室へと歩き出した。
「ここは集会場ではないんだがな」
数日ぶりに治癒室を訪れた生徒達の顔ぶれに、小さな教師は首を竦めて見せる。カーテンで仕切られた来室者のためのベッドの一つには、ソニアが眠っていた。
「どうなんだい先生、彼の様子は」
「魔術発動に失敗して、暴発を起こしたらしい。修練場の結界が幸いしたな」
今はソニアのベッドを囲むように小さな治癒魔法の結界が張られ、淡い光を放っている。衣服の袖口がぼろぼろに焼き切れ、頭髪や顔も煤けているが、確かに外傷として特別ひどい火傷は見当たらなかった。
『精霊魔法だろう? 元素魔法の暴発なら、コレの比じゃない。この程度じゃ済まなかったはずだ』
「あぁ。どのみちリュノーの魔力を考えれば、運が良かった」
ジェリスの物騒な見解に、ハーシェルは首肯した。性質上、精霊魔法は力を司る精霊の共鳴が魔術に反映される。術者の魔力の暴走に精霊が歯止めをかけたことで、爆発の威力が大幅に軽減されたのだ。
『相棒の優秀さに救われたわけか』
「しかし、何故そんなことになったんだろうね。意識が戻るのを待ってリュノーに聞いてみるとしようか」
「待つ? そんな必要ない」
思案するイオンを切り捨てるように、ラッドは早足でベッドの前へと向かう。眉間に小さな皺を寄せて腕を組み、冷たく言った。
「何のつもりだ? バカかお前は」
直接様子を見た時から違和感があったのだ。毎朝の日課として彼を叩き起こしているラッドからすれば、ソニアの寝たふりなんてお見通しだった。怪我をしたというから焦って来てみれば、ずいぶんふざけた真似をしてくれる。
「……バカって何だ。失礼なこと言ってんなよ」
元より隠すつもりがあるのかないのか、ソニアもまた不機嫌そのものといった顔で薄目を開いた。
「なら見舞いを狸寝入りで出迎えるのは失礼じゃないと思ってるのか」
「うるっさいな……」
普段喜怒哀楽がはっきりしているソニアにしては、珍しく歯切れが悪い。こちらを見ようともしない彼の態度が腹立たしく思えて、ラッドは目を眇めた。
「何で自爆なんてヘマしたんだ? これで運が悪かったら、どうなってたと思う」
「何で? ……お前には関係ないだろ」
この期に及んで、まだそんなことを言うのか。
少し前からおかしいと思ってはいたが、どこかふて腐れたようなソニアの態度にラッドもいよいよ堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減にしろよお前、人の気も知らないで……どれだけ心配したと思ってる!?」
「お前にだけは言われたかねぇよ!!!」
直後、がばりと身を起こしたソニアから怒鳴り返された。
まるで掴みかからんばかりの形相に、ラッドは思わず固まる。しかし驚いたような顔をしているのは相手も同じで、ソニアはすぐに視線を逸らすと呻くような舌打ちと共にベッドへ潜り込んだ。
「……あ……」
ラッドは、ただただ相手の言葉に衝撃を受けていた。
心配しているのに、とか。何で何も言わないんだ、とか。様々な感情や疑問が、ソニアの一言で全て己に跳ね返ってきたような気がしたのだ。
【君は何より重要なことを認識できていない、疎すぎるんだ】
イオンの言葉が頭に蘇る。自分がソニアのことを言える立場ではないのだと、自覚した。
同時に今ソニアに抱いている感情のひとつひとつが、周りの大事な人達から自分に向けられた感情と同じものなのだと初めて気付く。
自分を想ってくれる身近な彼らにとって、はたしてこれまでのラッドの姿はどう映っていただろうか──
「…………悪い。色々……無神経だった」
自分は今の今まで、一体何をしていたのだろう。不甲斐なさと自己嫌悪に、頭の中がごちゃごちゃだった。
「……本当に、ごめん」
重ねて発した声に、煤の取れていないソニアの長耳がぴくりと動く。
「……おう。分かれば、良いんだよ」
寝返りを打つ形でラッドを振り返った親友は、むず痒そうな表情に小さく笑みを浮かべていた。