Phantom of the Emerald Page.03

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 名前を呼ぶ声がした。

 否、呼ばれたような気がしただけかもしれない。

 昔から聴き慣れた、懐かしい声が届いたのだ。うとうとと微睡んでいた目をゆっくりと開き、耳を澄ませる。

 けれどそれは、どこか切実な……そして妙に逼迫した音のようにも感じた。例えるなら、呼び声の主にとっての嘆き、悲しみ、憤怒……どう形容するべきか、具体的な表現を青年はまだ知らない。

 ただ一つ、はっきりと分かることがあった。

 『彼』が、今どこかで自分の力を必要としている。




「では、好い返事を期待しているよ!」

 一限目終了の鐘とほぼ同時に、ラッドは席を立つ。にこにこと手を振るイオンの声を背中で聞きながら、足早に教室を出た。

「おいラッド!」

 ソニアが半ば駆け足で追いついた親友の肩を叩くと、いつもと変わらない、しかし確かに好奇心に満ちた金色の目がかち合う。

「オレは職員室に寄ってく。お前は先に次の授業の教室行ってろ」
「お? 珍しいな、お前職員室嫌いじゃん」
「……ヴァニの言ってた件、乗りたいと思ってるんだ」
「ほー?」

 驚いた風に言いながらも、ソニアから見てラッドがイオンの誘いに興味津々なことはすぐに分かった。

 何せイセンフェーナ市といえば国内でも特に自然豊かな土地で、一部は珍しい植物や生物といった天然記念物の保護区に指定されているからだ。一般人の立ち入り可能範囲がどこまでかは分からないが、知識欲旺盛なラッドにはさぞ魅力的に思えたことだろう。

「ただその間の授業を抜けること、ハーシェル先生に相談しようかと」

 イオンに付いて出かけるならば、当然その間の何日かは学院の授業を欠席することになる。ラッドが先日から受けられるようになった、実技の授業も含めて。

 だからこそイオンの言う「好い返事」を出すために、ラッドは先に不安要素を解消しておくつもりだ。

「お前も何やかやで真面目だよなぁ。僕、普通にサボろうかと思ってた」
「それは【お前だから】できるんだ。多少のサボりで実技トップの生徒切り捨ててたら学院が廃れる」

 本人にさして自覚はないが、決して模範的な生徒ではないソニアが諸々の問題行動に目こぼしを受けているのは、彼が優秀だからこそだ。他の生徒がソニアと同じことをすれば、普通は色々と問題になるのである。

 まして未だ魔術の発現すら見せていないラッドにとって、教師側の都合を踏まえても事前対策は必須だ。

「課外活動枠でセーフになるかもしれない。どの道面倒なことはさっさと済ませるに限る」
「確かに。じゃあ僕も大手を振って出かけられるように、許可取っとくかぁ」
「何だ、結局ソニアも付いてくるのか?」

 ソニアは当たり前だと言わんばかりに頷く。彼の性格からして、学院で受ける座学よりも外で身体を動かす方が断然楽しいに違いなかった。

「そりゃ初めてのお誘いだし? しっかし変わるもんだなぁ、あのイオンがあんなキャラになるとは」
「キャラ……? 編入のオレより、お前の方がヴァニとの付き合い長いんだったか?」

 ソニアの言う意味はよく分からないが、先程のやり取りを踏まえてもラッドの中でイオンの印象は若干変わりつつあった。癖が強く変わり者ではあるが、思ったよりも気さくで好感が持てる相手なのかもしれない。


 最近は根を詰めていたし、今回の誘いもあるいは良い気晴らしになるのではないだろうか。心身の健康のためにも、楽しめることは楽しむべきかもしれない。


 そんな風に考えながら大階段の踊り場に差し掛かったところで、ラッドは何か硬いものを踏んだような感触を覚える。

「まぁ僕も元々同じ授業に当たること自体少なかったし、今じゃ学科すら違うけどな。アイツ、お前が入る前くらいまではさぁ……」
「……何だ?」

 隣で話を続けるソニアをよそに、足元に視線を向けた瞬間。ラッドの後頭部に何か強い衝撃がぶつかった。


「ラッド!!?」


 一瞬、思考が明滅した。頭を強打したことで体勢を崩し、踵が浮く。何が起きたのか全く分からないまま、やけに鮮明なソニアの声を聞いていた。

 咄嗟に手摺りへ手を伸ばすが、届かない。重力に逆らえない身体が、前のめりに傾く。その倒れる先にあるものは──


 その時、胸の下辺りをぐいと掬い上げられるような感触がした。あわや大階段を転げ落ちるかという寸でのところで、身体が停止する。

 何が、どうなったのだろう。目を瞬いたラッドは、胸元に──正確に言えば首飾りの宝石に、淡い光が灯っていることに気が付いた。

『……怪我は?』

 間近で問う声に、顔を上げてみる。いつも通り微妙に不機嫌そうな表情のジェリスがそこにいた。

「ジェリス……わざわざ来てくれたのか」
「ジェリっさん!」

 自分が何故無事なのかを把握して、ラッドは詰めた息を吐き出す。半ば抱えるようにラッドを支えたジェリスは微かに宙に浮いており、その整った顔には汗ひとつかいていなかった。

『昼寝に飽きただけだ』

 大階段の残り数段を降りたところで、ラッドは着地したジェリスから離れる。確かめるように踊り場の方を見上げると、ソニアが安堵の表情を浮かべていた。

「ラッド今どうした? 大丈夫か!?」
「心配いらない。後ろ頭に何かぶつかったせいで、バランス崩したんだ」
「頭に何かってオイ……」

 ラッドは周囲を見回してみる。その場に居合わせた人間が、あるいは何か見ていないかと思ったのだ。

 しかし廊下や階段周辺にいた幾人かの生徒達は、ラッドが目を合わせるなりそそくさとその場を離れて行ってしまった。知らず、ため息が漏れる。

「まぁ、何よりお前が無事で良かっ……」

 言いながら階段を降りようとしていたソニアが、ぱっと弾かれたように後方を振り返った。一体何に気付いたのか、踊り場から元来た上階を見上げる表情が険しくなる。

「ソニア? おい……」
「お前は治癒室行っとけ!」

 言うや否やソニアは踵を返し、ラッドが止める間もなく駆け戻って行ってしまった。

 ぽかんとしたままのラッドと、訝しげに眉を顰めたジェリスだけが、そこに取り残される。

『……何があった?』
「オレにもよく分かってないけど……今話してた通り。お前が来てくれて、本当に助かった」

 まだ少し鈍痛を残している頭を抑え、ラッドはゆるゆると首を横に振った。仮にも頭を打っている分、何らかの応急処置は必要だろう。ソニアからの指示は大雑把だが、正しいのだ。

 ジェリスを伴い、ラッドは治癒室へ向かった。





 ラッドが大階段で、不自然にふらついた時。すぐ隣にいたソニアにも、何が起きたか理解ができなかった。

 幸い、ジェリスが来てくれたおかげでラッドは難を逃れた。そのことにはほっとしたが、ラッド本人から短く経緯を聞いて何だか嫌な予感がしたのだ。

 その時、背後……というよりも、上階から誰かの視線を感じた。こちらを見て嗤う嫌な気配に、ソニアは反射的に階段を駆け上がる。

 だが、上階の廊下や生徒達の様子はいつもと何ら変わらないものだった。視線の主は既に逃げてしまったのだろうか。

「……どこだ?」

 いや。まだ、何かある。こちらに向けた厭な視線を、確かに感じた。要は馬鹿にされているのだと、静かに苛立ちが募る。

「なぁ、さっきまで……この辺りで変なことしてた奴とか、見てないか?」

 何とか気を落ち着かせようと軽く深呼吸して、通りかかった同期生に尋ねてみた。

「そこの階段でバタバタしてたの、ソニアだったのか?」
「友達が階段から落ちそうになったのを、目の前で見たんだ。後ろから何かぶつけられて、足滑らせたんだって」
「そういやさっき……、その友達ってエイディウか?」
「何だよ、ラッドがどうしたって?」

 首を傾げるソニアに、同期生は気まずそうな顔で視線を逸らした。

「こんなこと言いたかないけど、アイツに関わると巻き添え食らうぞ」
「……は?」

 ソニアの声音が若干低くなったことに慌てたのか、生徒は取り繕うような早口で告げる。

「エイディウを気に食わないって奴、多いんだよ。魔法の力少しもないのにこの学院に来てるのは、アイツだけ贔屓されてるからって噂だし」

 ソニアにとっては、何故そんなことを言われるのか理屈が分からない。「由緒ある魔術師のための学び舎」を謳いながら、突然何の関係もないラッドに誘いをかけてきたのは学院の方なのに。

「ラッドは贔屓なんかされてねぇよ」

 確かに、何故ラッドが招かれたのかはソニアにも分からない。けれど、「魔法が使えない者を迎える」という異例中の異例に際して、内部の人間達を先に納得させておかなかったのは間違いなく学院側の怠慢であるはずだ。何故、悩んで学院に入ったラッドの方へ非難が集中してしまうのだろうか。

「だいたい、ラッドはもう非魔術師じゃない。精霊魔法のテキセー持ちがちゃんと契約済ませて、イチから勉強しようっていう姿勢の何が不満だってんだ」
「知らないよ。ただ魔法を使えるようになろうが、元々エイディウを嫌いな連中にとっては変わんないんだろ。嫌がらせする奴だって普通にいるさ。だからお前も、そこまで深入りしない方が……」

 最初は、休み時間で羽目を外した生徒の巻き添えを食ったのかと思っていた。しかし同期生の口ぶりからすると、今しがた大階段でラッドの身に起きたことは──他生徒の悪意による、明確な嫌がらせという可能性が高いのか。

 しかも、「普通にいる」だと?

「……お前も、【そう】思ってんのか?」
「え?」

 むかむかとした気分が、腹の底からせり上がってくる。ソニアは怒りで声が震えそうになるのを堪えた。

「【そいつに落ち度があるなら、あぁいう真似されても仕方ない。それが普通だ】って。お前、そう思ってんのか?」
「そ、それは……」

 危うく、ラッドは大怪我をするところだった。未遂で済んだからよかったものの、階段から転げ落ちるなんて下手すれば死んでもおかしくないのに。そんな故意の惨事が、「普通」の一言で済まされてたまるものか。

「……とにかくアイツに関わるとろくなことにならないって、そういう空気ができてるんだよ。皆が皆、お前みたいな奴じゃない」
「もういい」

 話を聞けば聞くほど、いらいらする。ソニアは舌打ちして、口ごもる同期生を突き放した。

 人となりをろくに知らない生徒ですら、こんな調子に染まっている。ラッド本人との付き合いがあれば彼の認識も多少は変わったのかもしれないが、自分の親友はどれだけの悪意に囲まれているのか。

 それをどうにもできない自分自身がまたもどかしく、腹が立って仕方なかった。ソニアは半ば八つ当たり気味に壁を拳で殴りつけ、大きく息を吐き出す。

「……ラッドのとこ、戻ろ」

 彼はおそらく、ソニア自身が指示しておいた通り治癒室に向かったはずだ。頭をぶつけたと言っていたが、そちらの方は大丈夫なのだろうか。

 まだ見つかっていない視線の主に関しては気になる。しかし、捜索を続けようという気にはなれなかった。何だか心が疲れている。

 そんなソニアの肩に、背後から誰かの手がすっと触れた。





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