Phantom of the Emerald Page.01

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『おれ、ずっと独りぼっちだったから。君に逢えて、嬉しいよ』

 初めて逢った時、彼はそう言った。

 確かにそこに存在しているはずなのに、どこか掴めない感じがした。ひどくおぼろげで、曖昧な空気を纏った奴だと思ったことを覚えている。

 ……本当に、こいつは生きているのだろうか。

 ふとそんなことが気になって、おそるおそる手を伸ばす。その手をそっと包んで、青年は微笑した。

『どうしたの?』
『おばけじゃ、ない』
『……うん、そうだね。ちゃんと生きてるよ、君と同じように』

 穏やかで優しい声は耳に心地よく、胸に抱いた不安を溶かしてくれるような安心感がある。

『改めて、これからよろしくね』

 鮮やかな海の色をした目を見つめて、自分は頷いた。





 まだ朝靄の濃い時刻に、鋭く打ち合う金属音が辺りの空気を震わせる。

「はぁッ!!」

 既に上気した顔に伝い落ちる汗を拭う。更に短く呼吸を整えると、ラッドは眼前に立つ相手に向かって剣を払った。

 ラッドと同じく刃を潰した剣を逆手に持って、彼の一撃を受け止めているのは守護精霊のジェリスだ。ラッドの放った一撃を打ち払い、すれ違いざま主の背中に蹴りまで入れてくる。

「いッ!」
『……朝の分はこれくらいにしておくか』

 数歩たたらを踏んで立ち止まり、ラッドは悔しさに舌打ちしながら振り返る。ジェリスは涼しい顔で剣を鞘に納めると、肩を竦めた。

 ジェリスと契約してから既に一週間近く、ラッドはこうして自宅の庭で毎朝鍛錬を続けている。元々週に三、四回の習慣だったものが、ジェリスとの契約を機に毎日の日課となった。

 上級精霊の主となったからには、もっともっと強くならなければいけない。幸いにしてジェリスは武術にも長けていたため、こうして教えを受けているのだ。

 更に言えばジェリスの武術はかなりの腕で、型も独特だ。剣技の授業で常に上位の成績を誇るラッドが本気で向かって行っても、一本取ることさえできない。相手はかなり手加減をしているだろうから、その差はなお開いて見えた。

『当たり前だ、俺を何だと思っている? 十六の子供にやすやすと抜かれてたまるか』
「……十七だ。国が認める成人年齢までは一年切った」
『俺から見れば大して変わらんが……そうなのか』

 ラッドはつい先日、十七歳の誕生日を迎えたばかりだ。ジェリスは剣を納めるラッドを見ながら、目を細める。

『ところでお前、誰に戦い方を習った? マシエか』
「あぁ、うん」

 もちろん授業でも一通りの型は習っているが、武術においてラッドが一番色濃く影響を受けているのはおそらくマシエだろう。

 マシエの教える戦い方は武器の扱いを主軸にしつつ、時折体術も織り交ぜられる変則的なものだ。古い武道や儀礼のような畏まった構えはなく、魔物や対人における実戦を考えた戦い方をする。

 本人曰く独自の喧嘩殺法らしく、マシエは呑気に「昔色々あったからなぁ」と笑っていた。

 身軽さを生かして素早くたたみかける戦い方を好むソニアと、落ち着いて相手の様子を見てから次を決めるラッドの戦法は全く違う。同じ人間に戦術の手解きを受けていても、個人の性格や武器によって技の発展には大きく差が出るのだろう。

 ジェリスは少し考えるような間を置いて、二階にあるラッドの部屋の露台にふわりと飛び移った。

『……お前は踏み込みが甘い。一撃入れる時、軸足をもう一歩出せ。重さが違うはずだ』

 窓の閉まる音を聞いて少しした後、ラッドはふぅと息を吐いた。あの様子を見るに、ジェリスは二度寝するつもりなのかも知れない。

 十数年ぶりの再会後早い内に知ったのだが、彼にはかなりものぐさな所があるらしかった。時々ふらりといなくなっては、適当な場所で昼寝をしている。


 ラッドの身に何かが起きた時や、精霊の力を必要とした時。ラッドの思念は守護精霊たるジェリスに伝わる。契約の絆である首飾りを通して、声なき声が届くのだ。

 その影響なのか、彼は普段学院で学ぶラッドと別行動を取っていることがほとんどだった。

 ラッドもジェリスも、相手に気を遣ったり積極的に交流を持つのが得意な方ではない。だからラッドとしてはむしろ良い距離感だと感じるのだが、世間ではそうでもないらしい。

 気配の大小や姿を見せているか否かを問わず、精霊術師は常に守護精霊と共に在り、守護精霊もまた常に主の傍に在るものだ。そんな考えが浸透する世の中では、気ままに主と離れて行動する機会が多いジェリスの存在は、他に類を見ない例であるようだった。

 おかげでラッドが精霊が傍にいないことを蔑む者もいたが、些細なことだ。必要な時に喚べば力を貸してくれるというし、さしあたって特に問題はない。

 彼が人目の多い場所を避ける理由も、何となく分かっていた。ジェリスのように人と全く変わらぬ姿を取る精霊となれば、否が応にも人間達から好奇の視線が集まることは分かり切っている。ジェリスはおそらく、そういったものが煩わしいのだ。

 そんな感覚が理解できるからこそ、ラッドも最初から無理強いするつもりはなかった。

 庭から戻ると、次にラッドは手早く自分の身支度を整えた。台所に置かれた水差しを持って、二階への階段を上がる。そして自室の隣にある部屋の扉を無言で開け放った。

「ソニア、起きろ」

 部屋の隅に置かれたベッドの上、毛布に包まった大きな塊に声をかける。閉め切られたカーテンを滑らせると、部屋に心地よく朝の日差しが射し込んだ。

 部屋の主はまだぴくりとも動かない。目覚める気配のない蓑虫に、ラッドはつかつかと歩み寄った。

「ソニア!」

 もう一度大きな声で呼ぶが、もぞもぞと身じろぎしただけのソニアから明確な反応はない。やれやれと内心で呆れながら、ラッドはベッドに片足を乗せる。一拍置いて、巨大な塊をベッドから蹴り落とした。

「いてぇッ! ……んぁ?」

 ごろんと勢いよく転がり落ちて、ようやくソニアは目を覚ましたらしい。むくりと体を起こし、まだ覚醒しきっていない目をラッドに向ける。

 この家で暮らし始めて十数年経つが、彼の寝起きの悪さには思わず閉口してしまう。完全に目が覚めてしまえばいつも通り溌剌としているソニアだが、夢の世界に一体どれだけの執着があるのか、放っておくと昼近くまで起きてこないのが常である。

「毎朝毎朝荒っぽいなぁ、ラッドは」
「さっさと起きないお前が悪い。何なら頭から水でも被るか?」
「遠慮シマス」

 ぶつぶつと文句をこぼしながら服を探す親友に、ラッドはぴしゃりと言い切る。水差しを片手で持ち上げて見せると、ソニアは慌てて首を横に振った。

 先に一階へ戻り朝食を摂るラッドに、マシエが片目を瞑って見せる。

「今日はベッドをひっくり返したのか?」
「ううん、蹴り落とした。後片付けを考えなければもっと手っ取り早く起こせるけど」

 どうやら二階での物音がしっかり聞こえていたらしい。使われなかった水差しを眺めるラッドに、マシエは何らためらうことなく言い切った。

「やってやれ、俺が許す。手加減なんざしなくていい」
「……じゃあ、今度試してみる」
「今度、何を試すって?」

 ちょうど一階へ下りて来たソニアが、息子を見てにやりとするマシエの様子に首を傾げる。

「何でも。じゃあ、先行ってるから」
「あ、待てって!」

 元々小食なラッドは、食事を終えるのも早い。ソニアにすれば物足りなく感じる量の朝食を終え、早々に席を立つ。ソニアは口にパンを詰め込みながら慌てて立ち上がったが、親友が既に玄関を出ているのを見ると、一緒に登校するのを諦めた。椅子に座り直すと食事を再開し、黙々と咀嚼を繰り返す。

「お前ももうちっと早く起きたらどうだ? その内ラッドが部屋ごとふっ飛ばしたらどうすんだよ」
「煽ってるの親父だろ」

 リュノー家の大黒柱は、楽しそうににやりと口元を吊り上げた。ソニアは苦虫を噛み潰したような顔で家長を睨み、パンを飲み下す。

 この父親が相当な愉快犯だという事実は、物心付いた時から知っていた。やれベッドをひっくり返せだの、いっそベッドごと引き摺って外に放り出してみようだの、自分を起こすラッドに毎回おかしな案を吹聴しているのは他ならぬ彼なのだ。

「ほれ喰ったらさっさと行け、早くしねぇと遅刻だぞー」
「はいはいはいはい!」
「“はい”は一回!」

 父親の暢気な声を背に受けて、ソニアはばたばたと玄関を出て行った。

「ったく、朝っぱらから忙しいヤツだ」
「それをつついて遊んでるのはマシエでしょ」

 父子のやり取りを台所から見ていたミリアが、呆れたとでも言いたげに肩を竦める。しかし傍観者を決め込みながら、一番面白がっていたのは彼女ではないだろうか。その顔には悪戯っぽい笑みが浮かぶ。

 何だかんだと構って遊んでいるが、ソニアは二人にとってまっすぐな気質を持つ自慢の息子だった。新聞を手に取り、マシエもまた満足そうに笑う。

 だが間もなく、新聞を斜め読みしていたマシエの端正な眉間に小さな皺が寄った。

「どうしたの?」
「……何だコレ」

 珍しく難しい顔で記事を読むマシエの横から新聞紙を覗き込み、ミリアも訝しげに眉を寄せた。

「──こんな話、俺聞いてないけど? あちらさんはそれでいいのかね」

 マシエの疑問に答える術を持つ者は、誰もいなかった。





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