Promise with the Garnet Page.06
キリンスは全身の鈍い痛みに耐えて、走っていた。
無茶な体勢のままワイバーンから振り落とされたせいで、叩きつけられた体がずきずきと痛む。踏み出す度に足が痺れるが、それをあの二人の前で表に出さなかったのはせめてもの意地だった。
背後では依然派手な戦闘が繰り広げられているが、今の自分が加わってもワイバーンを止める戦力になるとは思えなかった。
おそらくこの足のことを、彼は気付いていたのだろう。だからこそ、邪魔だと言って戦闘の場から自分を引き離すことを選んだに違いない。
ラッドがキリンスに指示を出したのは、教師という助っ人を呼ぶことが今取れる最善手であると同時に、怪我人を戦闘の場から遠ざけられるという理由からだったのだ。
落ちこぼれのくせに、嫌味なくらい頭の回るヤツだと思う。
しかしあれだけ考えられる力があって、アイツは何故わざわざこの魔術学院に入って来たのだろうか。
激情が薄れた頭で、キリンスはふとそんなことを思う。
いくら非魔術師に対して風当たりが強いとはいえ、それは魔術師の人口が密集している一部の話だろう。ティオルタの街には、住み分けを目的とした非魔術師のための学び舎も確かに存在する。というより、ラッドは元々そんな学校から編入して来たのだという。
学院内で魔法を使えない自分がどんな扱いを受けることになるか、予想できないはずはないだろうに。いくら入学許可証が届いたからといって──
つらつらと考えながら走っていたキリンスは、そこで一瞬何か硬いものにぶつかったような奇妙な感触を覚えた。
障害物はない。衝突した衝撃も痛みもなく、砕けた硝子を思わせる硬質な高い音だけが、鼓膜を打つ。
「……っ!?」
何だ、今のは。
その場で立ち止まってから、またもおかしなことに気付く。
先程まで後方で聞こえていたはずの破壊音、声。それら緊急事態を知らせる騒音の全てが、唐突に消えたのだ。
はっと振り返った先にある光景を見て、キリンスは己の目を疑った。
大暴れするワイバーンの姿など、影形も見当たらない。戦っていた二人の少年ごと、消えていた。二本は破壊されていたはずの石柱も、四本揃って整然と並び立っている。波を打ったような静寂だけが広がっていた。
戦闘の経過や痕跡が丸ごと消去された修練場の姿に、頭が混乱する。
平然と流れる日常に、キリンスは今まで自分がいたのはどこだったのかという恐怖すら覚えた。
「何だよコレ……何が、どうなって……」
咄嗟に引き返そうとしたが、見えない壁のようなものに阻まれてそれ以上一歩も先に進めない。突然現れた障害物を拳で叩き、キリンスは舌打ちした。
「……異物を遮断する結界、の中に……幻覚系魔術ってことか!? 何だってんだよ一体……!!」
二重の魔術、あるいは結界自体が複数の力を持つ高等魔術。一体いつから発動していたというのか。
どちらにしても今キリンスの前に展開しているのは、驚くほど高度な連係魔術だ。こんなものが発動していたら、修練場で何が起きているのかなど、外からは誰にも分からない。一体誰が、何のためにこんなことを。
キリンスは考えること数秒、再び学舎に向かって走り出した。とにかく教師の誰かに事情を話し、このワケの分からない魔術を解除してもらわなければ。
非常に悔しくて腹立だしかったが、あのワイバーンを何とかするためにも、今は自分に出来ることをやらなければならない。
キリンスは、必死に駆けた。
「あぁもう、援護はまだかよ!?」
風上から襲いかかる熱と炎の勢いに舌打ちしながら、ソニアは苛ただしげに舌打ちする。
「な……っ!!」
直後ぎょっとして発動中の術を打ち切ると、倒れる石柱に注意が逸れていたラッドの肩を引き、素早く地に伏せた。上空から炎を吹きつけていたワイバーンが、そのままこちらを目がけて体当たりしてきたのだ。
長剣が地面に落ちる、乾いた音がした。
「うわわわわ……っ」
「ソニア!?」
自分の握っている剣を確認し、ラッドが見上げると──ソニアが、ワイバーンの前脚に掴まれた状態で空を舞っている。
「たけぇええええ!!」
ソニアは叫びながら手足をじたばた動かし、拘束を逃れようともがいている。だが腹をしっかりとわし掴みにされているせいで、なかなか抜け出せないらしい。
「あだだだだ! おいふざけんな中身出たらどうしてくれんだ!!」
いかんせん今の状態では高度があるせいで、ラッドにはその姿を見上げるしかできない。
暴れる獲物を煩わしく思ったのか、竜がソニアを掴む前脚に力を込める。ソニアはもがきながら口を開いた。
「ラ・ヴィンス……っ」
そこで鋭い爪が肌に食い込むほどの力で腹部を圧迫され、ソニアはぐっと呻く。
「ソニア黙れ! それ以上動くな!!」
竜族そのものの力、そしてワイバーンの大きさからして、今のソニアを傷つけるなど造作もないことなのだ。下手をすれば内臓ごと潰されるか爪で斬り裂かれるか、どちらにしろ取り返しのつかないことになってしまう。
そう思いはっとなって声を張り上げたラッド自身、しかし策があるとは言えなかった。
急に大人しくなったソニアから大声の主へと意識が逸れたのか、そのまま空中で旋回した竜がラッドの目の前に対峙する。
その姿に、ラッドは息を飲んだ。
恐怖と緊張に、胸の鼓動がやたらと煩く聞こえる。上手く呼吸ができない。剣を握った体勢のまま硬直したラッドの頭に、様々な思考が駆け廻った。
オレにも、もっと力があれば──
もっと強くなりたい。この状況を何とかできる力が欲しい。
どんな精霊でも良い、オレの声が届くならどうか、誰か。
誰か、力を貸して──
召喚用の魔法陣も消えている今、いくら心の中で喚んだとしても結果は見えている。そう分かっていても、強く願わずにはいられなかった。
試験なんて関係ないし、退学なんてもうどうでもいい。ただ今は、ソニアを助けなければならない。
すると──
【──君はあの人の名前を知っているはずだよ、ラッド】
水滴が落ちたような、透明な声がした。ラッドの脳裏に響く、自分ではない誰かの声。
「(……アンタは、あの時の……?)」
即座に思い浮かんだのは、昨日夢で助けてくれた青い光だ。中性的で透き通った声が、響き渡る。
【大丈夫、“ぼく”も覚えてる。一緒に呼んで。きっと、思い出せるから──】
「我が声に応え、ここに姿を現せ──」
疑っている暇はない。
何よりも、こいつの言うことは信じられる──ラッドは本能でそう感じていた。
眼窩の奥で意識が弾け、自分の中に響いた声と精神が同調していくのが分かった。
精霊魔法を使う瞬間というのはこんな感じだろうか、とうっすら考える。
ラッドはこの声の主を知らない。
おそらく彼──もしくは彼女は、ラッドの守護精霊ではないのだろう。なのに何故こんな現象が起きるのか、自分でも分からなかった。
【さぁ……行くよ!】
二つの意識が、繋がる。同時にそれまではバラバラだった記憶の欠片が、パズルのように一瞬で組み上がっていくのが分かった。
夢に幾度も現れた、あの銀髪の精霊。ラッドは、ゆっくりとその名前を呼ぶ。
「来い……ッ!」
精霊──【ジェリス・ゼロ】!!!
瞬間──目が眩むような輝きが辺りを包み、螺旋状に迸った紅い閃光が空を突き抜いた。
光の中、まるで主を護るように現れた背中を見て、ラッドは目を見開く。
風に流れる銀の長髪に、赤い法衣を羽織った青年が自分の前に立っている。
翼竜は、時が止まったかのように活動を停止していた。
『……やっと、思い出したか』
呆れているのか、溜め息を吐いた様子が後姿からも見て取れる。
そうだ、思い出の中に在ったのはこの声だ。ラッドはおそるおそるといった風に、名前を呼ぶ。
「ジェリス、なのか……?」
『……まったく、二年も余計に掛かるとはな』
こちらを振り向き、相手が少し不満そうに鼻を鳴らす。至高の芸術品を思わせる、目が覚めるような美貌の青年だった。深紅の鋭い視線に、ラッドは安堵する。
彼がにっこり笑うところなど、見たことがない。だからこそ、その不遜な表情が何だかとても懐かしかった。
彼は自分が知っている、あの“紅い”精霊なのだと確信できた。
「……久しぶり」
来てくれた。
彼は小さい頃の約束も名前も、今まで何もかも忘れていた自分のところへ来てくれたのだ。
【あと十年したら……お前と契約してやる。だからその時は、俺を喚べ。俺を守護に選べ】
そんな、少し強引な言葉で交わされた約束を。今ようやく全部、思い出すことができた。
“守護精霊”の出現と再会に安心していたラッドは、そこで向き直ったジェリスを目で追い、はたと現実に立ち帰った。このワイバーンをどうにかしなければという問題が、まだ残っているではないか。
するとジェリスが、精霊語で何かを囁いた。流麗な詩が音となり、心地よく耳に響く。
「何とかできそうか?」
『……肩慣らしにもならんな』
詠唱を終えたジェリスは、指を軽く打ち鳴らした。
すると軽い音と共に、怒りの形相を浮かべた竜の姿があっという間に輪郭を失っていく。
あまりにあっさりとした消滅が信じられず、ラッドは呆然と直前までワイバーンがいた場所を見つめていた。依然時が止まったままの空間には、ソニアだけが不自然な体勢で浮いている。
『……ついでだ、目障りな結界も壊してやる』
「え?」
結界と言われても、一体何のことなのかラッドにはさっぱり分からない。
ラッドが止める暇もなく、ジェリスは手を上空に翳し、魔術を解放した。
直後その場に巻き起こった光の嵐が、荒れ狂いながら空へ立ち昇る。硝子が砕け散ったような音を伴い、修練場に張り巡らされていた結界魔術を貫いた。
その一瞬、学院全体が紅の奔流に塗り潰された。
空を貫き天に昇る紅い光と、直後辺りを包み込んだ閃光。
幻覚魔法の効果が共に破壊されたことで、それまで異変に気付かなかった生徒達、教師の誰もが窓に取り付き、何が起こったのかと光の中心を見つめる。
「何だアレ!?」
ラッド達の求める「助っ人」を連れて急ぎ修練場に向かっていたキリンスは、一度足を止めて背後の人物を振り返った。
「先生、アレって……」
「何にしろ、後始末は必要なはずだ。行くぞ」
落ち着いた理知的な声でキリンスを促すと、青年は空から舞い落ちる魔力の残滓へと目を向けた。
「これは……」
破壊されて粉々になった結界術の破片は、その指先に触れると溶けるように消えた。
ただ一人。
学院の屋上から、修練場の様子を眺めている存在がある。『彼』だけは暴れる紅い魔力の性質をはっきりと理解しており、修練場を包む光の内側で何が起きているのかも知っていた。
「……目覚めたか。それで良い」
眇められた翠緑の瞳が僅かに歪み、酷薄な笑みが口元を縁取る。
彼に気付く人間は、誰一人としていなかった。