Promise with the Garnet Page.02
二人の帰る家は、いくつもの商店が並ぶ通りを抜けしばらく歩いた先にある。閑静な住宅街の片隅、白煉瓦の外装と渋茶色の屋根という一般的な佇まいの家が、ソニアとラッドの住む家であった。
「ただいまー」
「おかえり、二人とも」
「ただいま、おばさん」
玄関に顔を出して帰宅した彼らを出迎えたのは、肩まで伸びた柔らかそうな薄桃色の髪と、淡い灰色の瞳を持つ女性。
ソニアの母であるミリアは、近隣の住民からも評判の美女だ。長寿であるエルフ族の特徴として知られる美貌を差し引いても、学生の頃から気立てが良く穏やかな性格から、妻となり母として生活する今も多くの人々に愛されている。
だが、この家に暮らす者は皆知っていた。逆鱗に触れた際彼女が時折見せる顔は、リュノー家最凶の人物と言わしめるだけの迫力を持っているのだということを。
次に鞄を置くため二人が部屋へと向かえば、彼らの自室がある二階の踊り場天井から、リュノー家の大黒柱がひょっこりと顔を覗かせた。
「おー、帰ったか」
「うわびっくりしたぁッ!?」
逆さ吊りになった自分そっくりの顔が突然目の前に現れ、ソニアが驚いて即座に数歩退く。
「そこは素直に“ただいま”だろ? 何だそのビビりようは」
「そんな姿勢で子供出迎える人に言われたくないんだけど!」
「いちいち些細なことでビクついてんなよ、大きくなれねぇぞ」
帰宅早々子供達の心拍数を上げてくれた父親に、ソニアが至極まともな反論をする。だがマシエは何とも思っていないような口調で、平然と息子を諭した。
リュノー家の長であるマシエは、端正でありながら人好きのする顔立ちの持ち主だ。薄紫の色味が強いさらさらの銀髪に映える目は鳶色で、その瞳にはまるでやんちゃな少年を思わせる好奇心の輝きが強く宿っている。
エルフの中でも異例の若さで子を持つ親となったマシエの身体的特徴は、ほぼ全てにおいて目の前に立つ息子へと受け継がれていた。
「おじさん? そんな所に上がってるなんて珍しい……」
まだ鼓動が鎮まっていないのか、ソニアは息を吐きながら胸を撫で下ろしている。そんな彼の後ろから、ラッドが家長の姿を見上げた。
マシエがいるのは、踊り場天井の扉に梯子を引っ掛けて行き来する屋根裏部屋だ。そこから身を乗り出して覗き込めば、自然と首が逆さにぶら下がっているような状態で、二階に上がって来た人間と鉢合わせる形になる。
「んー、倉庫ついでにこっちの方も片付けをな。作業終わったーと思ったトコで、ミリアに捕まってさぁ」
やれやれと呟きながら、マシエの顔はどことなく嬉しそうだった。屋根裏で、何か面白いものでも見つけたのだろうか。
「倉庫って、庭の?」
「おう。新しい機走浮盤も買ったことだし、古い方の車は倉庫にしまうかと思ってな」
機走浮盤。忘れかけていた話題を出されたせいか、ソニアが思わず声を漏らしそうになる。
「どうした? 何かあんのか」
「……えーと……」
返事に窮して、ソニアは僅かに視線を泳がせた。
まさか満面の笑みを見せられている手前、件の新しい機走浮盤を壊してしまった──なんて、言えるわけがない。どうしても乗ってみたくて、傷一つ付けないことを条件に頼み込み、マシエが買い替えたばかりの新車をようやく貸して貰えたのだ。
こんなことになるなら、大人しく使い古された年代物の方を貰って満足しておくべきだった。今更そう思っても、所詮は後の祭である。
気まずそうに口元を引き攣らせながら何か言おうとしているソニアを見かねて、短い逡巡の後にラッドが答えた。
「帰り道で早々に燃料切れ起こしたから、途中の充填屋に預けて来たんだよ。明日にはちゃんと持って帰ってくるから」
「あっれぇ、この前俺が自分でメンテしといたんだが……そんなに燃料切れるの早かったか? 何か充填のやり方間違ったかね?」
「多分そうだと思う、行きの時には普通に動いてたんだけど」
しゃあしゃあと言うラッドの横で、ソニアは彼に合わせて同意するようにマシエを見る。行きの時点で壊してました、裏道に隠して帰って来ました、などという余計な注釈は、絶対に口にしない。
「……もしかしておじさん、いつもみたいに解説書ろくに読まないで手入れしたとか?」
「何故バレた」
「勘かな」
ラッドの台詞からは嘘など微塵も感じられないどころか、さりげなく責任を相手に擦りつけている節すらあった。こういう時の彼の話術は流石だと、ソニアは感心しきりだ。真似したいとは思わないが。
まだ若干納得行かないような顔をしながら、掃除の続きをするためかマシエも首を引っ込める。少し間を置いてソニアがにやりと笑いながら肩を叩くと、ラッドは目を眇めて呟いた。
「……分かってるとは思うが、明日行くのは修理屋だからな」
思う所があったソニアは、それを聞いた途端に苦虫を噛み潰したような顔になる。彼の知る限り、学院周辺で機走浮盤の修理を請負っている店は一つしかなかった。
幼少期から身よりがないラッドは、リュノー家で育てられた居候だった。
生来身体が弱かったらしい母親は、ラッドを産んですぐに亡くなっている。凄腕の精霊術師として名を馳せたという父親もまた、友人であったリュノー夫妻に五歳のラッドを預けてそのまま行方知れずになっていた。
ラッドの父親の行方や彼が幼い息子を残して消える程の事情について、マシエが口にしたことはない。
どうして、父親はいなくなってしまったのだろう。
「……そうだよなぁ。お前の方がずっと不安だよな」
家に預けられて間もない頃、ラッドが尋ねた時。マシエはそう首を横に振り、ラッドを抱きしめて黙り込んでいた。
「殴ってでも止めときゃ良かったな……」
マシエも親友としてラッドの父親を心配していて、不安なのだ。
そしてそれをきっかけに、ラッドは父親の行方について口にするのをやめた。
大好きな父親の選択のおかげで、自分はこんなに良い家族に囲まれている。恵まれているのだ。この上淋しいなんて口にしたら、きっとマシエ達は悲しむ。
幼心に、ラッドはそう思ったのだった。
更に年月が経てば、やがて父親への恋しさも徐々に薄れていく。同い年だったソニアを始めリュノー家の人間は、拾い子のラッドに対してもとても優しくて大らかだった。
時には台所からミリアが作った焼きたての菓子をかすめてつまみ食いしたり、二人並べて叱られたり、魔物から身を守るためマシエに我流の武術を習ったりと、ラッドとソニアはいつも一緒だったのだ。
それだけならば良かったのかも知れない。
ラッドが生きている社会全体が、彼ら家族のようなものであれば──
「……あーダメだ、わっかんねぇ!」
「これ、宿題にある中でも随分と簡単な問題なんだが」
ラッドと共に教科書を睨んでいたソニアが声を上げたのは、夕食後しばらくしてからのことだった。
今日の講義で出された宿題を教えてもらうべく、ラッドの部屋を訪れていたソニアはついに頭を抱えて匙を投げた。
理論や数式なんて小難しい理屈を知らなくても自分は今までに困ったことなどないし、【学校での成績】という単純な物差しで測ったからといって生徒の人間性、ましてや人としての価値など分かるわけがない──というのが、ソニアの持論であり信念の一つである。
他ならぬラッドも彼の考えには多少なり賛同しているのだが、今この状況下では立派な演説も単なる言い訳にしか聞こえない。
「勉強する気ないなら、もう部屋戻って寝ろよ」
自ら教わりに来ているのに、全くもって根気の続かないソニアである。ラッドは溜め息を吐いた。部屋の壁時計を見ると、かち、かち、と小さな音を立てながら規則的に時を刻む針の動きは、既にいつもの就寝時間を過ぎている。
「自称“健康優良児”はそろそろ寝る時間だろ」
「まぁね。ラッドはどうすんの?」
そう言いつつラッドの机に積まれた本を捲って、ソニアは苦い顔になる。内容の仔細は知るべくもないが、覗き見た頁には召喚用の魔法陣とその解説が難解な文字でびっちりと書かれていた。
「……もう少し、起きてるつもりだけど」
ソニアの問いへの答えか、ラッドはそう言いながら月明かりの差し込む窓に目を遣った。
「いつも思ってたけど、お前こそ寝不足になるんじゃないの? 寝坊にしろ今日みたいなパターンは珍しいんだ、明日も僕が起こすなんて奇跡は期待しないで欲しいんだけど」
「最もだな」
今朝でこそソニアに起こされる形となったが、普段の起床時間はラッドの方が早い。いつも自分より早起きなラッドが今日に限って寝坊しかけたのを見て、ソニアは密かに心配していたらしい。
「きっちりしてるお前が珍しいよな、何かあった?」
「──変な夢、見るんだ。同じ物を何回も」
抑揚に欠ける声が、静かな部屋の中に響く。
「どんな?」
「銀髪の男が出て来て……オレに言うんだ、十年したら……」
十年したら──
十年後に、どうするのか。それが思い出せない。彼は自分に何と言っていたのだったか。
そもそも、あの夢に見る光景は一体いつ頃の話なのだろう。何度も見るから特徴は覚えてしまったけれど、自分は過去にあんな青年と出逢ったことがあるのだろうか?
途中で黙り込んだまま考えるラッドを眺め、ソニアは首を傾げる。
「……嫌な夢だったのか?」
首を横に振ったラッドの表情は読めない。
「思い出せない、けど……大切なことなのかも知れない」
薄靄のような霧の中で、たった一人ふらふらと歩く。
前後の感覚などない。白一色の風景を眺めいても、どちらが右で、どちらが左なのかすらも分からなかった。
あぁ、これは夢だ。すぐにそう理解する。
だが、いつも見ていたあの青年の夢とは明らかに空気が違っている。
ここはどこだ? どうしたら目覚めることができる?
視界に映る白い闇を凝視していると、その中の一点で霧達が固まったような気がした。
やがて霧を少し濁らせて現れた小さな人影に、一瞬背筋が震える。最近いつも見ていた夢の青年とは、明らかに異質な空気を持つ何かが近付いて来る。
「……なんだ、あれ」
あれは自分を呼んでいる──そう感じたのは何故だろう。だが聴こえてきた音を伴わない声が、はっきりと自分を招いているのだと確信する。
とても嫌な感じがした。手が強張り、足が竦む。喉がからからに乾いて声が出なくなる。頭の中では警鐘が鳴り響いているのに、せり上がる恐怖から全く身動きが取れなかった。
影がすぐそこまで近付いていても、なおその姿は霧で見えない。
──ラッド。
だがそこで、自分を呼ぶ声に頭を上げる。目の前に、小さな光が一つだけ漂っていた。青く小さな煌めきが、ふわりと宙を舞う。
──少しでも【あれ】に触れたら、帰れなくなるよ。
脳裏に直接響いて来る言葉に、目を丸くする。この光は精霊か、何かの魂なのだろうか。目の前に立つ恐怖への警告を受けて、ラッドは静かに応えた。
「(分かってるけど、逃げようにも体が……)」
──大丈夫……さぁ、行って。
刹那、ラッドと人影の間に入った光から、音のない輝きの奔流が溢れ出す。抗えない光の波に飲まれ、ラッドは誰何する間もなく夢の底から引き戻されて行った。
──アイツはもう動き出してる。だから……
響く声は、どこまでも澄んでいる。
──思い出して、あの人と交わした約束を──