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里帰り

──どこかにあって、どこにもない世界。その史実において、【略奪者】と呼ばれた魔王がいる。


 とある王国の片隅にある、小さな街の酒場。日も暮れて賑わう店内に、見慣れぬ客が訪れた。常連の若者が、そのくたびれた旅装束に目を留める。

「どこから来たんだい? その恰好、もしかして詩人?」

 同じカウンターについていた若者を一瞥し、客はややあって頷いた。

 世界に散らばる英雄譚や叙事詩、史実や童話まで。詩人とは物語を語り、代価を貰うことで日々の糧を得る者達のことである。

 人の手から書物という媒体が失われて久しい。字の読み書きが王侯貴族や聖職者などといった上流階級の教養とされる中、物語を伝え歩く語り手の訪問は貴重な娯楽だ。そのため、彼らあるいは彼女らは庶民にも歓迎される。雄弁な語り口に加えて身振り手振りを交え臨場感を表現する他、楽器を奏でたり歌声に乗せて物語を詠む芸達者な者もいた。

「へぇ、いいなぁ。それなら、何か詠んでくれないか? もちろん金は出すよ」

 若者がそう提案すれば、周囲で飲んでいた他の客達も興味を惹かれたようで。重なる賛同に再び頷くと、詩人は席から離れ好奇心に満ちた視線を見回す。やがてゆっくりと口を開いた。

 時計塔に住み着いた鴉が守る秘宝の物語、精霊に弟子入りした伯爵家の騎士による武勇伝、不死の賢者と病に侵された娘の恋物語。【常闇の森】と呼ばれる夜の国の御伽噺──

 詩人の口からは時に朗々と、時に粛々と物語が紡がれる。謳い上げられる様々な情景を、酒に酔った客達も感嘆と共に聞き入った。夢か幻のような時間が終わり詩人が頭を下げると、拍手喝采が辺りに響き渡っていた。

 すっかり夜が更けて月が昇りきった頃、酔っぱらい達はいい気分で三々五々散っていく。売り上げも増えて上機嫌なマスターが、礼として詩人に一杯奢ってくれた。

 こんなに話したのは、ずいぶんと久しぶりだ。息を吐いてグラスを傾ける詩人の肩を、残っていた客がぽんと叩く。この酒場に来て席に着いた際、最初に詩人に声をかけてきた若者だった。

「おつかれ。楽しかったよ」

 若者がにこりと笑って卓上に差し出したのは、何枚かの銀貨と色褪せた金貨が一つ。カウンター越しに眺めていたマスターが、目を丸くした。

「何なら店から出すのに、太っ腹だなぁ。その金貨も、ずいぶん昔の限定硬貨じゃなかったかい」
「言い出しっぺは約束を守るもんさ。金貨はただのガラクタだけど、もう一つ話のタネになるかと思って」

 くすんだ金貨に刻まれているのは、王冠を戴く獣に似た奇妙な鳥の姿。珍しい意匠をしげしげと見つめる詩人に、若者はひらりと手を振った。

「昔、この国で人と争った魔物達の首魁……魔王のモチーフらしいよ。大戦以降は不吉だってタブー視されて、すぐに廃れたシロモノ」

 【魔王の覚醒】と呼ばれる、数百年前に王国で勃発した大戦。人間と魔物の間に巻き起こった戦禍は世界中に飛び火し、長い相克の末ついに人間は魔物の軍勢を退けることに成功した。──世に築かれた文明、積み重ねられた歴史の記録一切を代償にして。

 その爪痕は、人間達にとって世界の滅びと同義であったという。


 同じ大地で共に暮らしていながら、突如本性を現し人間に牙を剥いた裏切り者。多くの魔物達を率いて侵略・虐殺行為を繰り返した文明の破壊者。文化が回復し始めた今なお【略奪者】とあだ名される魔王の存在は、王国と教会によって広く伝えられている。

 そんな歴史の概要に関してはおおよそ詩人も知り得ているが、遠く離れた地ならまだしも、最初に戦が起きたとされるこの国で、酒場の余興に出すような話ではないと考えていた逸話だ。相手の裁量で報酬が決まる以上、大多数の不興を買うような話は避けた方が無難というのも一因である。マスターが「なんだ、」と呟いた。

「じゃあ、店に気を遣ってたのかい? 悪いねぇ」
「で、その魔王がさっき最後に話してた物語の舞台……【常闇の森】? そこの住人だったって説を聞いたことがある」

 詩人は目を瞬く。観客達に最後に語った「常闇の森」の童話は、詩人も過去に故郷を訪れた旅人から聞いたものだった。

 いつも真っ暗で静かな夜の森に暮らす人々が、流れ星を求めて旅をする。闇に潜む魔物の手を逃れ、あるいは戦いつつ、求めていた星屑を手にする物語──内容自体はとても単純だ。その小さな童話が、王国の史実に端的な関わりを持っていたと言うのか。

「というのもな、同じ名前の森を舞台にした魔物の話を知ってるんだ」

 言って唇を微かに酒で湿らせると、若者は語り始めた。


──それはどこかにあって、どこにもない世界。一日中月が浮かぶという闇夜の国に、人間達と魔物達が暮らしていた。

 寿命は短く身体も弱いが、頭数や巧みさに長ける人。屈強な身体と力強さ、そして魔法の力を持つ魔物。日が昇り沈む里と、浮かぶ月が護る森に住処を分けた二つの種族は、時たま必要に応じて手を取り合い、また互いを脅威として距離を保つことで、共存を果たしていたのである。

 だがある時、人が火の魔法を手に入れたのを境に均衡は崩れた。人々は脅威を取り除くため、魔物達をその炎でもって排除し始めたのだ。

 これに異を唱えたのは、森で眷属達をまとめていた魔物の王。翼を持つが鳥ではない、牙と毛皮を持つが獣とも違う、森に棲む魔物を統べる賢い長だった。

 彼は知恵ある仲間や人に届く言葉を持たない同胞達の不満を聞き届け、夜の平穏を取り戻すべく人の王との交渉に臨む。しかし交渉の帰途についた魔物の王が見たものは、人の王命によって放たれた炎に包まれている森、そして親しかった仲間達の亡骸であった。

 故郷と、そこに暮らす仲間。かけがえのないものを全て喪った魔物の王は、唯一生き残った仔をかき抱いてこう宣言したという。

『我らが守りし領域を侵した傲慢な王よ。力に溺れた愚昧な人間どもよ。私は汝らを永劫赦しはしない。その生の証すべてを消し去ってくれよう!!』


 赤く染まる夜空を覆わんばかりに背中の翼を広げて、魔物の王は咆哮する。その姿は、底知れぬ憤怒と悲哀に満ちていた──。



「……とまぁ、こんな顛末なんだけど……大丈夫? 顔が真っ青だ」

 若者の語る声が途切れ、詩人は我に返る。自分の顔が汗びっしょりになっていることに、遅れて気付いた。

 若者が物語を語っている間、人間の侵攻が始まった辺りからずっと寒気が止まらなかった。さして情感がこもっているわけでもない若者の語り、淡々とした声音に、得体のしれない恐怖を感じた。最後の宣言では、怖気から悲鳴を上げるのを堪えたほどだ。

 自分は今何か、とてつもなく恐ろしい話を耳にしたのではないか。輪郭を持たない不安と狂気に、冷たい手で心臓を握り潰されるような心地になる。

「言霊ってすごいね。人間には刺激が強すぎるんだろう」

 動悸の余韻を落ち着けるべく深呼吸を繰り返す詩人は、ぽつりと漏れたマスターの呟きに気付かない。

「お客さん、休んだ方がいいんじゃないかい? 部屋なら空いてるよ」

 マスターの勧めに、詩人は疲れ切った様子で頷く。伸ばした腕をやんわりと断って、頼りない足取りで二階の部屋に上がっていく客を、若者は静かに見送った。



『まだまだ改良の余地がありそうだねぇ、お前の語りは。普通、話す前に縁起や信仰の有無くらい聞くものだろう?』

──他に客の姿がなくなると、マスターは若者に向けてにやりと口元を吊り上げた。

『魔物が主役の物語なんて、普通なら熱心な信徒や王国兵に追い回される可能性を先に考えて然るべきだよ』
「知ったことじゃないな。いつもはその魔物が話相手なんでね」

 つい先程までは朗らかだった若者の表情が、人気がなくなった途端仮面を外したように険しくなった。

『流れ者とはいっても、人間相手だから。その辺り気をつけないと』
「厭味ったらしい顔で駄目出しするのをやめろ」

 行儀悪くカウンターに肘を着き、若者は少なくなったグラスの水をあおる。無言で促され、マスターは空のグラスに代わりの冷水を注いだ。

『酒場では普通、酒を飲むものでしょ?』
「長く喋って喉が渇いた。酒なんてさっきのひと口が限界だ」
『そういえば僕の真似だよね、あの話し方。お前が小さかった頃を思い出したよ懐かしいなぁ』

 若者の切って捨てるような物言いにも、マスターは楽しそうにくすくす笑うだけだ。

『あの森にまつわる話がまだ残ってるとはね。人の伝達力も馬鹿にできないな』
「一番有名な歴史の方には、だいぶ脚色があるようだが? 【略奪者】だって?」

 マスターを横目に見つめる若者の声が、一回り温度を下げる。指で摘まむのは、詩人にも見せた古い硬貨。獣でも鳥でもない不思議な生き物、蝙蝠が刻まれた金貨だ。

「俺達の森を焼いたのは、アイツら人間だろう。こっち側に悪役を押し付けて、コレの意味も……全部なかったことにした」

 褪せた色の金貨を握りしめ、若者は静かに憤っていた。

 人間達の間で用いられる金銭に、魔物の意匠が使われていた意味。一線を引きながらも共に生きていた人と魔物の繋がりは、今やその全てが空虚でしかない。

『まさか自分達が先に喧嘩を売った結果返り討ちに遭った、なんて馬鹿正直に伝えられないからねぇ。王国も教会も、威厳を保つための緘口令に必死なのさ』

 我が子同然に守ってきた同族を宥めるように、マスターは己の見解を口にする。幼くして理不尽に多くの仲間を喪った彼の感情は、察するに余りあるものだ。

「馬鹿げてる。俺達魔物だって同じ国で、……この場所で生きてた。それなのに、何で」
『……そうなんだよねぇ』
「何でそんなにしれっとしてるんだよ、当事者」
『あれ、そういう風に見えるかな。僕にも思うところはある、ずっとね』

 マスターはそこでふっと真顔になる。

『好き放題な身内連中をいい具合にまとめるのも、そりゃあ苦労したけれど。それでも人間達と揉める方が面倒だから、頑張ってたのにさ……あっちから全部台無しにしてくるんだもの』

 忘れたことなどない。あの時見た光景を、あの時感じた絶望を。激情は胸の奥に凍りついたまま、見えない血を流し続けていた。

 気ままな放浪の最中で、暇潰しに人の集まる店を構えてはみたけれど。聞くところによれば、人間はどうやらあの大戦から何も学んでいないらしい。

『……うーん、確かに思い出したら腹が立ってきたな』

 他者の住処を一方的に滅ぼしたばかりか、情報が白紙に戻ったのをいいことに、歴史の立場をすり替えて熱心に世界中へ広めている。ほんのわずかに力が戻ったからといって、調子に乗りすぎなのではないだろうか。

『半端はよくないって言うし……うん、決めた』

 思案の末に漏れた呟きが剣呑さを帯びる。魔王の瞳は、冬の三日月のように怜悧な輝きをたたえていた。

『言い出しっぺは約束を守るものだからね。今度は徹底的にやろうか』


──我らが守りし領域を侵した傲慢な王よ。力に溺れた愚昧な人間どもよ。私は汝らを永劫赦しはしない。その生の証すべてを消し去ってくれよう!!

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